介護現場で事故が発生すると、多くの施設では事故報告書が作成されます。事故の発生日時や場所、利用者の状況、事故の経過、対応内容、再発防止策などが記録され、関係者で共有されます。この仕組みは、介護の安全管理において欠かすことのできないものです。

しかし、その事故報告書は、本当に「学び」を生み出しているでしょうか。

介護施設の事故報告書を見ていると、「見守り不足だった」「確認が不十分だった」「注意力が不足していた」といった記述が少なくありません。一見すると原因を整理しているように見えますが、これらは実際には原因ではなく、事故の結果を言い換えているだけの場合があります。

例えば、「確認不足だった」という結論に至ったとします。しかし、そこで考察を終えてしまえば、「次回から確認を徹底する」という再発防止策しか導き出せません。

ところが、安全学はすでに、人間はどれほど努力しても確認漏れを完全になくすことはできないと明らかにしています。

つまり、「もっと注意する」「確認を徹底する」という対策だけでは、安全は向上しません。

では、安全な組織は事故をどのように分析しているのでしょうか。

その答えは、安全理論の発展の歴史の中にあります。

前回学んだように、ハインリッヒは事故を一連の出来事の連鎖として理解しました。そのため、初期の事故分析は、「どの出来事が事故へつながったのか」という時間的な流れを整理することが中心でした。

この考え方は現在でも重要です。

利用者が転倒した場合であれば、起床から転倒までの経過を時系列で整理することによって、「どの段階で危険が生まれたのか」を把握できます。

事故は突然起こるのではありません。

必ず経過があります。

この発想は、今日の事故分析においても基本となっています。

しかし、ジェームズ・リーズンは、「経過だけを整理しても事故の本質は見えてこない」と考えました。

彼が示したスイスチーズモデルでは、一つの事故の背後には複数の防御機能が存在し、それらが同時に破綻した結果として事故が発生すると考えます。

この考え方は、事故分析の方法そのものを大きく変えました。

事故の直接原因だけではなく、その背景にある組織的要因を探る必要があると考えられるようになったのです。

ここから発展した代表的な分析手法が、「RCA(Root Cause Analysis:根本原因分析)」です。

RCAという言葉を初めて聞くと、「本当の原因を一つ探す方法」と誤解されることがあります。しかし、RCAの目的は、犯人探しではありません。

事故が起きた背景には、どのような条件が重なっていたのかを体系的に理解し、組織全体の改善につなげることにあります。

例えば、服薬介助で誤薬が発生したとします。

事故分析を「職員が薬を間違えた」で終わらせれば、それは原因分析ではありません。

なぜ薬を間違えたのでしょうか。

薬剤の配置は分かりやすかったのでしょうか。

利用者から急に話しかけられたのでしょうか。

別の利用者への対応が重なっていたのでしょうか。

服薬確認の手順は実際の現場に合っていたのでしょうか。

新人教育は十分だったのでしょうか。

このように、「なぜ」を繰り返し問い続けることによって、事故を生み出した組織全体の構造が見えてきます。

重要なのは、「五回なぜを繰り返せば必ず真の原因へ到達する」という単純な考え方ではありません。

現代の安全学では、事故には複数の要因が存在することを前提とします。

したがって、RCAの目的は一つの原因を見つけることではなく、「原因のネットワーク」を理解することにあります。

この視点は、介護現場でも非常に重要です。

介護事故の多くは、一人の失敗だけでは説明できません。

利用者要因があります。

環境要因があります。

業務要因があります。

教育要因があります。

組織要因があります。

これらが相互に影響し合い、初めて事故が発生します。

事故分析とは、その複雑な関係を解きほぐしていく知的な作業なのです。

さらに、安全学は「原因」だけではなく、「事故が起きる環境そのもの」を分析する必要性にも気付きました。

ここで重要な役割を果たしたのが、SHELモデルです。

SHELモデルは航空安全の分野で発展した分析手法であり、人間を取り巻く環境全体を体系的に捉えようとする考え方です。

SはSoftwareを表します。

ここにはマニュアルや手順、ルール、記録様式などが含まれます。

HはHardwareです。

介護ではベッドや車椅子、リフト、センサー、福祉用具などが該当します。

EはEnvironmentです。

室温、照明、騒音、床材、施設構造だけでなく、人員配置や勤務体制といった環境も含めて考えます。

そしてLはLiveware、人間そのものです。

SHELモデルが優れているのは、人間だけを見るのではなく、人間と周囲との関係を分析する点にあります。

例えば、「介護職が誤薬した」という出来事を見ても、それはLだけの問題ではありません。

マニュアルは分かりやすかったでしょうか。

薬のラベルは読みやすかったでしょうか。

照明は十分だったでしょうか。

夜勤による疲労はなかったでしょうか。

つまり、人間は常に周囲との関係の中で仕事をしています。

事故もまた、その関係性の中で生まれます。

これは、前回学んだSTAMPの考え方とも深く一致しています。

事故は人間の失敗ではなく、人間とシステムとの関係が適切に機能しなかった結果なのです。

介護安全学が事故分析を重視する理由はここにあります。

分析とは、失敗した人を評価することではありません。

安全を生み出している仕組みを理解し、その仕組みをより強くするための学習活動なのです。


次に、安全理論の発展とともに事故分析の考え方がどのように変化してきたのかを概観し、Root Cause Analysis(RCA)やSHELモデルが、事故を個人の責任へ還元するのではなく、組織全体の構造的な課題を明らかにするための分析手法として発展してきたことを説明しました。しかし、これらの分析手法が真価を発揮するのは、事故が発生した後に原因を整理する場面だけではありません。むしろ、安全学が目指しているのは、事故の分析を通じて将来の危険を予測し、事故そのものを未然に防止できる組織を構築することにあります。

この考え方を理解するためには、「事故分析」と「リスクアセスメント」を区別して捉える必要があります。事故分析とは、すでに発生した出来事を対象として、その背景に存在した要因を明らかにする営みです。一方、リスクアセスメントは、まだ事故として顕在化していない危険を予測し、その発生可能性と影響の大きさを評価した上で、必要な対策を講じる一連の活動を指します。両者は対象とする時間軸こそ異なりますが、安全という共通の目的に向かう相補的な活動であり、どちらか一方だけでは十分な安全管理を実現することはできません。

介護現場においては、事故が発生してから再発防止策を検討する機会は比較的多いものの、事故が起こる前の段階で危険を体系的に評価する仕組みは、必ずしも十分に定着しているとは言えません。しかし、介護という営みは、利用者の身体機能や認知機能、生活環境が日々変化する中で実践される以上、安全管理もまた静的なものではなく、継続的な再評価を前提としなければなりません。

このような視点から発展した分析手法の一つが、4M-4E分析です。この手法は、事故を単一の原因ではなく、多面的な要因の組み合わせとして理解することを目的としており、人(Man)、機器(Machine)、方法(Method)、管理(Management)という四つの視点から事故の背景を整理します。さらに、それらに対応する対策として、教育(Education)、工学的対策(Engineering)、環境改善(Environment)、管理体制の整備(Enforcement)の四つを組み合わせることで、再発防止策をより体系的に設計しようとする考え方です。

例えば、移乗介助中の転倒事故が発生した場合を考えてみましょう。職員の介助技術だけに着目すれば、「技術指導を強化する」という対策に落ち着いてしまいます。しかし、4M-4Eの視点から検討すると、介助方法が利用者の身体機能に適していたか、使用していた福祉用具は適切であったか、介助スペースに十分な余裕があったか、勤務体制や応援を求めやすい環境が整備されていたかなど、多角的な検討が可能になります。その結果、教育だけではなく、設備改善や業務設計の見直し、組織運営の改善といった複数の対策を組み合わせる必要性が明らかになります。

このような考え方は、ジェームズ・リーズンが示した「多層防御」の思想とも一致しています。一つの防御策だけで事故を完全に防ぐことはできませんが、それぞれ異なる性質を持つ防御機能を組み合わせることによって、安全性は着実に向上します。したがって、安全管理とは、単一の対策を徹底することではなく、互いに補完し合う複数の安全機能を設計し、それらを継続的に改善していく営みとして理解すべきです。

しかし、どれほど優れた分析手法を導入したとしても、それを運用する組織文化が伴わなければ、事故分析は形式的な業務に終わってしまいます。事故報告書が作成されても、その内容が管理者だけの確認で終わり、現場へ十分に還元されないのであれば、組織としての学習は生まれません。また、事故を報告した職員が責任を追及されるという経験を繰り返せば、現場ではヒヤリハットや小さな異常が共有されなくなり、安全文化そのものが損なわれてしまいます。

この点において重要になるのが、「分析」と「省察(Reflection)」を区別するという視点です。

分析とは、事故を客観的な事実として整理し、その因果関係を論理的に明らかにする作業です。一方、省察とは、自らの判断や行動、その背景に存在していた価値観や前提を振り返り、次の実践へ結び付ける学習の過程を意味します。

ドナルド・ショーンは、専門職とは、既存の知識や技術を適用するだけではなく、自らの実践を振り返りながら新しい知識を創り出す存在であると述べています。介護という仕事もまた、標準化された手順だけでは対応できない場面の連続であり、利用者一人ひとりの生活や価値観に応じて判断を重ねていかなければなりません。そのため、事故分析によって組織全体の課題を明らかにすると同時に、一人ひとりの専門職が「なぜ自分はそのように判断したのか」「他の選択肢はなかったのか」を振り返る省察の機会を持つことが、安全文化を成熟させるためには不可欠です。

さらに、クリス・アージリスが提唱したダブルループ学習は、この省察を組織全体へ広げる視点を提供しています。事故が発生した際に、手順を修正するだけで終わるのであれば、それはシングルループ学習にとどまります。しかし、「なぜその手順を採用していたのか」「現在の業務設計そのものは妥当だったのか」といった前提条件まで問い直すことができれば、組織はより深い学習を獲得することができます。

この考え方は、安全文化や高信頼性組織の理論とも深く結び付いています。安全な組織とは、事故が起きた事実だけを記録する組織ではありません。事故を契機として、自らの前提や組織の仕組みを問い直し、その学びを次の実践へ反映し続ける組織です。事故報告書は、そのための書類であり、責任を明確にするための文書ではありません。

ここまで見てきたように、事故分析とは、過去を検証するための活動ではなく、未来の安全を設計するための知的営みです。RCA、SHELモデル、4M-4E分析といった手法は、それぞれ異なる視点から事故を理解するために発展してきましたが、その目的は共通しています。それは、人間の失敗を責めることではなく、人間が安全に働くことのできる環境を設計し、組織全体の学習能力を高めることにあります。

介護安全学が目指す安全とは、事故をゼロにするという理想を掲げることではありません。事故やヒヤリハットを組織全体の知識へと転換し、その知識を日々の実践へ還元し続けることによって、安全という組織能力を着実に育てていくことにあります。その意味において、事故分析は安全管理の終着点ではなく、新たな学習が始まる出発点として位置付けられるべきなのです。