介護施設では、新人職員が最初に学ぶ安全管理の一つに「ヒヤリハット報告」があります。

「転倒しそうになった」「薬を渡し間違えそうになった」「車椅子のブレーキを掛け忘れそうになった」。

このような出来事を経験したとき、多くの施設ではヒヤリハット報告書の提出が求められます。

しかし、ここで一つ考えてみたいことがあります。

なぜ事故が起きていないにもかかわらず、報告しなければならないのでしょうか。

「何も起きなかったのだから問題はない」と考えることもできるように思えます。

ところが、安全学では、この「何も起きなかった出来事」こそが、最も重要な学習機会であると考えられています。

実際、航空、医療、鉄道、原子力発電所など、高い安全性が求められる分野では、重大事故だけではなく、事故には至らなかった小さな異常や違和感を継続的に収集し、分析する仕組みが整えられています。

介護分野でも同じ考え方が導入され、現在ではヒヤリハット報告は安全管理の基本的な実践となっています。

しかし、本来の目的は報告書を書くことではありません。

**「事故にならなかった理由を学び、将来の重大事故を防ぐこと」**が本当の目的なのです。

本稿では、まずインシデントという概念を正しく理解し、安全学がなぜヒヤリハットを重視するようになったのかを丁寧に考えていきます。


インシデントとは何か

まず、「インシデント」という言葉の意味を正確に理解しましょう。

インシデント(Incident)とは、「利用者に重大な傷害や健康被害は発生しなかったものの、そのまま状況が進めば事故につながる可能性があった出来事」と定義されます。

この定義には二つの重要な意味があります。

第一に、実際には重大な被害が発生していないということです。

第二に、偶然や誰かの適切な対応によって事故を回避できたということです。

つまり、インシデントとは「危険が存在しなかった出来事」ではありません。

**「危険は存在していたが、結果として事故にならなかった出来事」**なのです。

この違いは、安全管理を考えるうえで極めて重要です。


「ヒヤリハット」とインシデントは同じ意味なのか

介護現場では、「ヒヤリハット」という言葉が広く使われています。

では、ヒヤリハットとインシデントは同じ意味なのでしょうか。

結論から言えば、日本の介護や医療の現場では、ほぼ同じ意味で用いられることが一般的です。

ただし、安全学では、インシデントという言葉の方がより広い概念として使われます。

「ヒヤリ」としたり、「ハッ」としたりするという表現は、出来事を経験した人の主観的な感覚を表しています。

一方、インシデントは、個人が驚いたかどうかではなく、「事故につながる可能性があった事象」を客観的に捉える概念です。

例えば、夜勤中に利用者が一人でベッドから立ち上がり、ふらつきながら歩いていた場面を考えてみましょう。

偶然近くにいた職員がすぐに支えたため、転倒には至りませんでした。

職員本人は「危なかった」と感じたでしょう。

この出来事はヒヤリハットであると同時に、安全学では典型的なインシデントと考えられます。

反対に、職員が危険に気付いていなくても、後から振り返れば重大事故につながる可能性があった出来事であれば、それもインシデントに含まれます。

つまり、インシデントとは、「気持ち」ではなく「事故の可能性」に着目した概念なのです。


アクシデントとは何か

それでは、インシデントとよく比較される「アクシデント」とは何でしょうか。

アクシデント(Accident)とは、「利用者に実際の傷害、疾病、機能低下、死亡などの有害な結果が発生した出来事」と定義されます。

ここで重要なのは、「実際に被害が発生したかどうか」です。

例えば、利用者が歩行中によろめき、職員が支えたため転倒しなかった場合には、インシデントです。

しかし、そのまま転倒して大腿骨を骨折した場合には、アクシデントになります。

出来事の始まりはほとんど同じです。

違うのは、「最終的な結果」だけです。

このことは、安全学において非常に重要な意味を持っています。

なぜなら、重大事故の多くは、過去に繰り返されていたインシデントと同じ構造を持っているからです。

つまり、アクシデントだけを分析していては遅いのです。

インシデントの段階で危険を見つけ、改善することが、本当の事故防止につながります。


なぜインシデントという概念が生まれたのか

安全管理の歴史を振り返ると、初期の安全対策は「事故が起きた後」に行われることがほとんどでした。

重大事故が起きる。

原因を調査する。

再発防止策を作る。

この流れが一般的でした。

しかし、多くの研究者は次第に疑問を抱くようになります。

「重大事故だけを分析して、本当に事故は減るのだろうか。」

航空や製造業では、何万件もの事故を分析した結果、重大事故の前には数多くの小さな異常や軽微なミスが繰り返されていることが分かってきました。

つまり、重大事故は突然発生するのではありません。

その前には、「まだ事故になっていない危険」が数多く存在しているのです。

この考え方から、「事故ではなく、その前段階を分析しよう」という新しい安全管理の発想が生まれました。

これが、インシデント報告制度が広く導入されるきっかけとなりました。

介護施設でも、利用者の転倒事故が起きた後に原因を考えるだけでは十分ではありません。

転倒しそうになった場面、車椅子のブレーキを掛け忘れそうになった場面、服薬確認で違和感を覚えた場面などを収集し、それらを分析することで、事故を未然に防ぐことができるのです。


インシデントは「失敗」なのか

ここで、多くの新人職員が誤解しやすい点について考えてみましょう。

ヒヤリハットを書くことを、「失敗を書かされること」だと感じる人がいます。

しかし、安全学では、そのようには考えません。

インシデントとは、「失敗の記録」ではなく、「学習の機会」です。

例えば、利用者が車椅子から立ち上がろうとした瞬間に職員が気付き、転倒を防ぐことができたとします。

この出来事を「事故にならなかったから終わり」と考えてしまえば、次に同じ状況が起きたときには、本当に転倒してしまうかもしれません。

しかし、「なぜ今回は防ぐことができたのか」「利用者にはどのような予兆があったのか」「どのような見守りが有効だったのか」を振り返れば、その経験は組織全体の知識になります。

ここで思い出していただきたいのが、第10回で学んだSafety-IIの考え方です。

Safety-IIでは、「失敗だけではなく、うまくいった理由からも学ぶこと」が重要であると説明しました。

インシデントは、まさにその考え方を実践するための入り口です。

事故にならなかった出来事を丁寧に分析することによって、安全を生み出している日常の工夫や判断が見えてきます。

その積み重ねが、安全文化を育てることにつながるのです。


前編のまとめ

本稿では、インシデントという概念の基本的な意味を学びました。

インシデントとは、「事故にならなかった出来事」ではなく、「事故になる可能性を含んでいた出来事」です。

また、アクシデントとの違いは、「実際に利用者へ有害な結果が生じたかどうか」にあります。

そして、安全学がインシデントを重視する理由は、小さな異常を学ぶことで、重大事故を未然に防ぐことができるからです。

さらに、インシデントは個人の失敗を記録するための制度ではありません。

組織全体が学び、安全文化を育てるための知識資源なのです。


ありがとうございます。

それでは、第21回後編をお届けします。

今回は、本連載の中でも特に重要な理論であるハインリッヒの法則バードの事故ピラミッドスイスチーズモデルを取り上げます。

これらは介護現場の研修でも頻繁に紹介されますが、多くの場合は図だけが示され、「なぜその理論が生まれたのか」「どのような考え方を伝えようとしているのか」まで説明されることは多くありません。

本稿では、一つひとつの理論を「定義」「歴史的背景」「考え方」「介護現場での具体例」という順序で丁寧に解説していきます。


これまでは、インシデントとは「事故にならなかった出来事」ではなく、「事故につながる可能性を含んだ出来事」であることを学びました。

また、インシデントを記録する目的は、職員の失敗を集めることではなく、組織全体が学習し、重大事故を未然に防ぐことであると説明しました。

では、安全学はどのような研究によって、この考え方へたどり着いたのでしょうか。

その歩みを理解するためには、ハインリッヒの法則から現代の事故分析理論までの発展を順に学ぶことが重要です。


ハインリッヒの法則とは何か

安全管理を学ぶと、最初に紹介されることが多い理論が**ハインリッヒの法則(Heinrich’s Law)**です。

この法則は、一九三一年にアメリカの保険会社で安全技術者として働いていたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒによって提唱されました。

ハインリッヒは、労働災害に関する数万件の事例を分析し、事故には一定の傾向が存在することに気付きました。

ハインリッヒの法則とは、「一件の重大事故の背景には、二十九件の軽微な事故と、三百件の事故には至らなかった危険な出来事が存在するという経験則」を指します。

ここで最も重要なのは、「一対二十九対三百」という数字ではありません。

この数字は、ハインリッヒが当時分析した労働災害から導き出した経験的な比率であり、すべての業種やすべての時代にそのまま当てはまる普遍的な法則ではありません。

安全学において本当に重要なのは、この数字が伝えようとしている考え方です。

それは、重大事故は突然発生するものではなく、その前には数多くの小さな異常や危険の兆候が存在するということです。

つまり、重大事故だけを分析していては、安全管理としては十分ではありません。

事故にならなかった出来事を丁寧に集め、そこから危険の芽を取り除くことが重要なのです。


介護現場でハインリッヒの法則を考える

介護施設で転倒事故が発生した場面を想像してみましょう。

ある利用者が夜間に転倒し、大腿骨を骨折しました。

この事故だけを見ると、「転倒事故が一件発生した」という事実しか分かりません。

しかし、その事故の前を振り返ると、利用者が何度も立ち上がろうとしていたこと、歩行時にふらつきが見られていたこと、車椅子のブレーキを掛け忘れそうになったこと、夜勤帯に見守りが一時的に手薄になっていたことなど、小さな異変が繰り返されていた可能性があります。

もし、それら一つひとつの出来事がインシデントとして共有され、改善されていたならば、重大事故は防げたかもしれません。

このように考えると、ハインリッヒの法則が伝えたいのは、「三百件集めなさい」ということではありません。

「小さな異変を軽視しない組織こそが、安全な組織である」という安全思想なのです。


ハインリッヒの法則の限界

一方で、現代の安全学では、ハインリッヒの法則をそのまま受け入れるだけでは不十分であるとも考えられています。

その理由は、事故の種類によっては、小さな異常がほとんど存在しないまま重大事故が起こることもあるからです。

また、「一対二十九対三百」という比率は、当時の労働災害を分析した結果であり、医療や介護、航空など、異なる分野へそのまま適用できるとは限りません。

したがって、現代では、この数字を絶対視するのではなく、「重大事故の背景には多くの危険の兆候が存在する」という考え方を理解することが重要であるとされています。


バードの事故ピラミッドとは何か

ハインリッヒの考え方をさらに発展させた理論として知られているのが、**バードの事故ピラミッド(Bird’s Accident Pyramid)**です。

この理論は、一九六〇年代に安全管理の研究者であるフランク・E・バードによって提唱されました。

バードの事故ピラミッドとは、「重大事故の背景には、多数の軽微な事故と、さらに多くの物的損害事故やインシデントが存在しており、それらを改善することが重大事故の予防につながるという考え方」を示したモデルです。

バードは、ハインリッヒよりもはるかに多くの事例を分析し、事故の背景には「物的損害だけで終わった出来事」や「けが人が出なかった出来事」も数多く存在することを示しました。

この理論が教えてくれることは、「重大事故だけを追いかけていては、安全は実現できない」ということです。

むしろ、日常の中にある小さな異常や違和感を継続的に改善していくことが、安全文化の成熟につながります。


スイスチーズモデルとは何か

事故分析学の中で最も有名な理論の一つが、ジェームズ・リーズンが提唱した**スイスチーズモデル(Swiss Cheese Model)**です。

スイスチーズモデルとは、「事故は一人の失敗や一つの原因によって発生するのではなく、多層的に存在する防護壁(防御層)にある複数の弱点が、ある条件の下で一直線に重なったときに発生するという事故発生モデル」と定義されます。

この理論は、一九九〇年代に提唱され、医療、航空、原子力、鉄道など、高い安全性が求められる分野で広く活用されています。


なぜ「スイスチーズ」なのでしょうか

この理論を初めて学ぶ人の多くは、「なぜチーズなのだろう」と疑問に思います。

スイスチーズには、小さな穴がいくつも開いています。

リーズンは、この穴を「組織やシステムに存在する弱点」の例えとして用いました。

ここで重要なのは、一枚のチーズだけではないという点です。

安全な組織には、多くの防護壁があります。

例えば介護施設では、利用者アセスメント、ケアプラン、申し送り、見守り、環境整備、福祉用具、家族との情報共有、多職種連携などが、それぞれ事故を防ぐための防護壁になっています。

それぞれの防護壁は、完全ではありません。

申し送りには伝達漏れが起こることがあります。

福祉用具には故障が起こることがあります。

職員は疲労によって注意力が低下することがあります。

つまり、どの防護壁にも「穴」が存在するのです。

しかし、通常は穴の位置が異なっているため、一枚目を通り抜けても二枚目や三枚目が事故を防いでくれます。

問題は、複数の穴が偶然一直線に並んでしまうときです。

その瞬間、防護壁をすべて通り抜け、事故が発生します。


介護現場でスイスチーズモデルを考える

ある利用者が夜間に転倒し、骨折した場面を考えてみましょう。

利用者は数日前から歩行能力が低下していました。

しかし、その情報は十分に申し送りされていませんでした。

ケアプランの見直しも間に合っていませんでした。

夜勤では一時的に他の利用者への対応が重なり、見守りが遅れました。

さらに、廊下の照明が暗く、利用者は滑りやすい履物を履いていました。

この事故を「夜勤職員の見守り不足」とだけ考えてしまうと、本質を見失います。

スイスチーズモデルでは、それぞれの出来事を別々の防護壁に存在していた穴として捉えます。

歩行能力の変化を十分に評価できなかったことも穴です。

情報共有が不十分だったことも穴です。

環境整備が十分ではなかったことも穴です。

職員配置が一時的に手薄になったことも穴です。

これらが偶然重なった結果として事故が発生したと考えるのです。

したがって、事故防止とは、一人の職員に注意を促すことではありません。

防護壁そのものを強くし、穴を小さくし、穴が重ならない組織をつくることが、安全管理の本質になります。


現代の安全学はさらに発展している

スイスチーズモデルは現在でも極めて有用な理論です。

しかし、安全学はここで止まってはいません。

第19回で学んだSTAMPやFRAMは、「防護壁」だけでは説明できない複雑なシステムへ対応するために提案されました。

例えば、介護現場では、職員が利用者の状態を見ながら柔軟に判断し、その場で対応方法を調整しています。

このような状況では、固定された防護壁だけではなく、人間同士の相互作用や、その日の状況に応じた適応も重要になります。

そのため現代の安全学では、ハインリッヒの法則、バードの事故ピラミッド、スイスチーズモデルを「古い理論」と考えるのではなく、安全学の基礎を築いた重要な理論として位置付け、その上にSTAMPやFRAM、Safety-IIなどの新しい理論が積み重なっていると理解されています。


まとめ

本稿では、安全学の発展を代表する三つの理論を学びました。

ハインリッヒの法則は、「重大事故の背景には数多くの危険の兆候が存在する」という考え方を示しました。

バードの事故ピラミッドは、その考え方を発展させ、物的損害やインシデントまで含めて分析することの重要性を示しました。

そしてスイスチーズモデルは、事故を一人の失敗ではなく、多層的な防護壁の弱点が重なった結果として理解する視点を提供しました。

これら三つの理論には共通点があります。

それは、「事故を個人の責任だけで説明しない」という姿勢です。

事故は組織全体の仕組みや情報共有、教育、環境、文化など、多くの要因が相互に影響し合って発生します。

だからこそ、介護安全学では、事故を「責任追及の対象」としてではなく、「組織が学び続けるための教材」として捉えることが重要なのです。