私たちは、安全な組織とはどのような組織なのかと問われたとき、「マニュアルが整備されている組織」「職員教育が充実している組織」「経験豊富な職員が多い組織」といった答えを思い浮かべるかもしれません。もちろん、これらはいずれも安全を支える重要な要素です。しかし、安全科学の研究は、それだけでは十分ではないことを明らかにしてきました。

現実には、立派なマニュアルがありながら重大事故を起こした組織も存在します。一方で、常に予測困難な状況に直面しながらも、驚くほど高い安全性を維持し続けている組織もあります。この違いはどこから生まれるのでしょうか。

この問いに真正面から取り組んだのが、高信頼性組織研究です。

高信頼性組織、すなわちHigh Reliability Organization(HRO)という概念は、一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校を中心とする研究者たちによって体系化されました。カール・ワイク、キャスリーン・サトクリフ、ジーン・ロバーツらは、「なぜ極めて危険な仕事をしているにもかかわらず、重大事故をほとんど起こさない組織が存在するのか」という問いを出発点に、多くの実証研究を重ねました。

研究対象となったのは、航空母艦の艦載機運用、航空交通管制、原子力発電所など、一つの判断ミスが多数の命に関わる現場です。これらの組織では、一般的な企業よりもはるかに高い危険性を抱えながら、長期間にわたり高い安全性を維持していました。

研究者たちは当初、その理由を高度な技術や厳格な規則に求めました。しかし、詳細な観察を続けるうちに、それだけでは説明できないことが分かってきました。

高信頼性組織では、マニュアルを守ること以上に、「状況を理解し続けること」が重視されていたのです。

例えば航空母艦の飛行甲板では、数秒の判断の遅れが重大事故につながる可能性があります。にもかかわらず、現場では状況が変化するたびに職員同士が絶えず情報を交換し、「今、何が起きているのか」「次に何が起こる可能性があるのか」を共有し続けています。

つまり、安全とは、決められた手順を機械的に繰り返すことではなく、変化する現実を絶えず理解し直す営みによって支えられているのです。

この考え方は、介護現場にもそのまま当てはまります。

介護の対象は機械ではありません。

利用者は毎日違う表情を見せます。

体調も変わります。

認知機能も変化します。

昨日まで歩けていた方が今日は立ち上がれないこともあります。

逆に、昨日までは座位保持が難しかった方が今日は驚くほど元気に歩こうとすることもあります。

このような現場では、「昨日と同じだから今日も同じだろう」という発想こそが危険になります。

介護職に求められるのは、利用者を固定的に理解することではありません。

「今日はどうなのか」を観察し続ける姿勢です。

ここにHRO研究との重要な接点があります。

カール・ワイクは、人間の組織は単に情報を集めるだけでは安全にならないと考えました。重要なのは、情報に意味を与えることです。

彼はこの働きを「センスメイキング(Sensemaking)」と呼びました。

センスメイキングとは、「状況を理解し、その意味を組織全体で共有する過程」を指します。

例えば、利用者が昼食を半分ほど残したという事実だけでは、それは単なる情報です。しかし、その情報に対して「昨日から食欲が低下している」「水分摂取量も減っている」「表情も普段より元気がない」という他の情報が結び付けられたとき、それは「脱水や感染症の前兆かもしれない」という意味を持つようになります。

この「意味づけ」の質こそが、安全を左右します。

介護事故は、多くの場合、「情報がなかった」ために起こるのではありません。

情報は存在していたにもかかわらず、その意味を十分に理解できなかったときに発生します。

例えば、夜間に利用者が何度もトイレへ行こうとしていたという情報があったとします。その情報だけを見れば、「排泄回数が多かった」という記録で終わります。しかし、「普段より落ち着きがない」「足元がふらついている」「睡眠不足が続いている」という情報と結び付けて考えれば、転倒リスクが高まっていることへ気付くことができます。

つまり、安全とは情報量ではありません。

情報を意味へ変える力なのです。

高信頼性組織では、この意味づけを一人の管理者だけに任せません。

現場にいる職員一人ひとりが、自分の気付きを組織全体へ伝え、それを互いに検討しながら状況理解を更新していきます。

この姿勢は、介護施設における申し送りやカンファレンスの本来の目的とも一致しています。

申し送りとは、情報を伝達する時間ではありません。

情報の意味を共有する時間なのです。

同じ利用者を見ていても、介護職、看護職、機能訓練指導員、栄養士では見えているものが異なります。その違いを持ち寄ることで、一人では気付けなかった利用者の変化が見えてきます。

ここに、多職種連携が安全へ貢献する本質があります。

高信頼性組織研究は、安全とは個人の能力ではなく、組織全体の「考える力」であることを教えてくれます。

その意味で、介護施設の安全性は、優秀な職員が何人いるかだけでは決まりません。

現場の誰もが気付きを共有し、その意味を一緒に考えられる組織であるかどうかによって、安全の質は大きく変わるのです。

次に、高信頼性組織を特徴付ける五つの原則、「失敗へのこだわり」「単純化への抵抗」「現場への感受性」「レジリエンスへのコミットメント」「専門性への敬意」を一つずつ取り上げ、それぞれを介護施設の日常業務へ具体的に結び付けながら考察していきます。そして、「安全な介護施設」とはどのような組織なのかを、現場の実践に即して掘り下げていきます。

これからは、高信頼性組織とは、危険性の高い環境にありながら長期間にわたり高い安全性を維持し続けている組織であり、その特徴は厳格な規則だけではなく、「状況を理解し続ける組織能力」にあることを説明しました。そこでは、現場で得られた情報を単に集めるだけではなく、それらに意味を与え、組織全体で共有し続ける「センスメイキング」の重要性についても考えました。

こうした研究を積み重ねる中で、カール・ワイクとキャスリーン・サトクリフは、高信頼性組織には共通する五つの特徴が存在することを示しました。これらは「五原則」として知られていますが、本質的には個別の技法ではなく、「安全な組織は世界をどのように見ているのか」を示す一つの思考様式です。

最初の原則は、「失敗へのこだわり(Preoccupation with Failure)」です。

この言葉だけを見ると、「失敗ばかり気にする組織」という印象を受けるかもしれません。しかし、ワイクらが伝えたかったのは、そのような意味ではありません。

高信頼性組織では、大きな事故だけを問題にすることはありません。むしろ、小さな違和感や、一見すると些細に思える出来事に強い関心を持ちます。

例えば、利用者が普段より少し食事を残した、歩く速度がわずかに遅くなった、会話が少し減ったといった変化は、それだけを見れば事故ではありません。しかし、高信頼性組織では、そのような小さな変化を「何かの前兆かもしれない」と捉えます。

これは、不安を過剰に抱くこととは異なります。

小さな異常の中に未来の危険を読み取ろうとする姿勢です。

介護現場では、「いつもと違う」という感覚が極めて重要になります。経験豊富な介護職が「何となく今日は様子がおかしい」と感じることがありますが、その感覚は曖昧な勘ではありません。日々の観察によって形成された高度な状況認識能力が、言語化される前の違和感として表れているのです。

第二の原則は、「単純化への抵抗(Reluctance to Simplify)」です。

人間は複雑な出来事に直面すると、それを単純な原因で説明したくなります。

「転倒したのは高齢だから」「誤薬したのは確認不足だから」「事故が起きたのは新人だったから」。

このような説明は理解しやすい一方で、本当の原因を見失わせる危険があります。

介護事故は、一つの原因だけで起こることはほとんどありません。

利用者の身体状況、環境、時間帯、情報共有、職員配置、疲労、認知特性など、多くの要因が重なり合って初めて事故は発生します。

高信頼性組織は、その複雑さを安易に切り捨てません。

「本当にそれだけが原因なのだろうか」と問い続けます。

この姿勢は、これまで学んできたヒューマンエラー理論や認知科学とも深く結び付いています。事故を「不注意」という一言で終わらせないことこそ、安全文化の出発点なのです。

第三の原則は、「現場への感受性(Sensitivity to Operations)」です。

安全は会議室で生まれるものではありません。

利用者と向き合っている現場で生まれます。

管理者がどれほど立派な計画を立てても、現場で何が起きているかを理解していなければ、その計画は現実から離れてしまいます。

現場への感受性とは、単に現場を巡回することではありません。

現場で働く職員が何に困り、どのような工夫を行い、どのような危険を感じているのかを理解し続ける姿勢です。

例えば、「最近は夕食前の時間帯に利用者が落ち着かなくなることが増えた」という介護職員の気付きは、転倒予防や認知症ケアを考える上で極めて重要な情報です。

高信頼性組織では、このような現場の声を「経験談」として軽く扱うのではなく、組織の知識として蓄積していきます。

介護施設においても、安全管理担当者や施設長が現場との対話を重ねることは、単なるコミュニケーションではなく、安全そのものを支える活動なのです。

第四の原則は、「レジリエンスへのコミットメント(Commitment to Resilience)」です。

これまでの安全管理では、「事故を起こさないこと」が主な目標でした。しかし、高信頼性組織は、どれほど優れた組織であっても予測できない事態は必ず起こると考えます。

重要なのは、異常が起きないことではありません。

異常が起きたときに、それを早期に察知し、被害を最小限に抑え、安全な状態へ立て直す能力です。

介護現場でも、利用者の急変や感染症の発生、災害、人員不足など、予測困難な出来事は避けられません。

そのような状況で柔軟に役割を調整し、情報を共有し、必要な支援を迅速に実施できる組織こそが、高いレジリエンスを備えた組織です。

ここで重要なのは、レジリエンスとは精神的な根性ではないということです。

個人が頑張る能力ではなく、組織全体が状況へ適応できる能力として理解しなければなりません。

最後の原則は、「専門性への敬意(Deference to Expertise)」です。

一般的な組織では、意思決定は職位の高い人が行います。

しかし、高信頼性組織では、状況によって最も専門性を持つ人の判断が尊重されます。

介護施設でも、施設長がすべてを判断することは現実的ではありません。

利用者の日常生活を最も理解しているのは、毎日接している介護職かもしれません。

褥瘡リスクについて最も詳しいのは看護職かもしれません。

嚥下機能については言語聴覚士や歯科衛生士が重要な知見を持っています。

歩行能力については理学療法士が最も深く理解しているでしょう。

高信頼性組織では、職位ではなく、その場で最も適切な知識を持つ人へ耳を傾けます。

この姿勢は、多職種連携の本質でもあります。

多職種連携とは、それぞれが専門性を発揮することではありません。

互いの専門性を尊重し、必要に応じて意思決定を委ねられる組織文化を育てることなのです。

ここまで五つの原則を見てくると、高信頼性組織とは、事故を恐れる組織ではなく、「学び続ける組織」であることが分かります。

失敗から学びます。

成功からも学びます。

現場から学びます。

利用者から学びます。

そして、その学びを組織全体で共有し続けます。

安全とは、一人の優秀な職員によって守られるものではありません。

学び続ける組織によって育まれるものなのです。

介護安全学において、高信頼性組織の理論は、「安全文化」を具体的な組織行動へと発展させる役割を担っています。

安全文化が組織の価値観であるとすれば、高信頼性組織は、その価値観を日々の行動へ変える実践理論です。

利用者の小さな変化に気付くこと、事故を個人の責任で終わらせないこと、現場の声に耳を傾けること、多職種の知識を尊重すること、変化へ柔軟に適応すること。これらはすべて、安全を「組織の知性」として育てるための具体的な営みなのです。

次回は、この組織の知性をさらに支える「システム安全」の考え方を取り上げます。事故は個人の失敗によっ