介護現場では、事故やヒヤリ・ハットが発生すると、「もっと注意していれば防げたのではないか」という言葉が聞かれることがあります。
例えば、利用者の車椅子のブレーキをかけ忘れた、薬を渡す順番を間違えた、食事介助の際に配膳を取り違えたといった出来事が起こると、「注意不足」「確認不足」という言葉で説明されることがあります。
しかし、本当にそれだけで説明できるのでしょうか。
もし、人間が「注意すれば決して間違えない存在」であるならば、経験豊富な介護職が事故を起こすことはほとんどないはずです。しかし現実には、長年の経験を持つ熟練者であってもヒューマンエラーを起こすことがあります。
この事実は、「ヒューマンエラーは個人の能力だけでは説明できない」ということを示しています。
現代の認知科学や安全学では、ヒューマンエラーは「人間の認知の仕組みから自然に生じる現象」であると考えられています。
つまり、エラーは「異常な人」が起こすものではなく、「正常な人」が正常に情報処理を行った結果として生じることがある現象なのです。
この考え方を理解することが、介護安全学の出発点になります。
ヒューマンエラーとは何か
まず、「ヒューマンエラー」という言葉の意味を正確に理解しましょう。
ヒューマンエラー(Human Error)とは、「人間が意図した行動や判断が、期待した結果を生み出さなかった状態」を指す概念です。
ここで重要なのは、「失敗した人」を意味する言葉ではないということです。
例えば、利用者に朝食後の薬を渡す予定で準備をしていたにもかかわらず、昼食後の薬を手に取ってしまったとします。
この場合、介護職は「間違えよう」と思って行動したわけではありません。本人は正しい行動を取っているつもりでしたが、結果として誤った薬を選択してしまいました。
これがヒューマンエラーです。
したがって、ヒューマンエラーは「故意の違反」とは区別されます。
例えば、「時間を短縮するために確認を省略しよう」と意図的にルールを破る行為は、エラーではなく違反(Violation)です。
一方、「確認したつもりだったが、思い込みによって見落とした」という場合はヒューマンエラーに分類されます。
この区別は、安全文化を築く上で非常に重要です。
なぜなら、エラーと違反では原因も対策も異なるからです。
なぜヒューマンエラーという考え方が生まれたのか
かつては、事故が起こると「本人の不注意」や「能力不足」が原因と考えられることが多くありました。
しかし、航空事故や原子力事故、医療事故などを詳細に分析すると、優秀で経験豊富な専門職であっても同じようなミスを繰り返していることが分かりました。
そこで、安全学の研究者たちは新たな問いを立てました。
「人間はなぜ間違えるのか。」
この問いに対して、心理学や認知科学、人間工学の研究成果を取り入れながら体系的な理論を構築した人物の一人が、英国の心理学者 ジェームズ・リーズン です。
リーズンは、事故を「個人の失敗」として捉えるのではなく、「人間の認知特性と組織環境が重なった結果」として理解することを提唱しました。
この考え方は、その後の航空安全、医療安全、介護安全など、多くの分野に大きな影響を与えています。
認知とは何か
ヒューマンエラーを理解するためには、「認知」という言葉の意味を知る必要があります。
認知(Cognition)とは、「人間が外界から情報を受け取り、それを理解し、記憶し、判断し、行動へ結び付ける一連の心の働き」を指します。
認知には、見ること、聞くこと、考えること、覚えること、判断することなど、日常生活のあらゆる知的活動が含まれます。
例えば、介護職が利用者の表情を見て「今日は元気がないようだ」と感じ、その後に声を掛け、必要に応じて看護職へ相談するという一連の流れも認知活動です。
このように、人間は常に情報を受け取り、意味を理解し、行動を選択しています。
しかし、人間の認知能力には限界があります。
脳は膨大な情報を一度に処理することができません。
そのため、人間は情報を効率よく処理するための工夫を無意識に行っています。
この「効率化」が、私たちの日常生活を支える一方で、ヒューマンエラーを生み出す原因にもなります。
注意とは何か
ヒューマンエラーを説明するときによく使われる言葉が「注意」です。
しかし、「注意」とは何を意味するのでしょうか。
注意(Attention)とは、「数多く存在する情報の中から、現在必要な情報を選び、心の処理能力を集中させる働き」と定義されます。
例えば、介護施設の食堂では、多くの情報が同時に存在しています。
利用者の会話、テレビの音、食器の音、職員同士の連絡、配膳の確認、利用者の表情や姿勢など、多数の刺激が一度に入ってきます。
もし人間がそれらすべてを同じ強さで処理しようとすれば、脳はすぐに限界を迎えてしまいます。
そこで注意は、「今は利用者Aさんの嚥下状態を観察しよう」「次は薬を確認しよう」というように、必要な情報を選択します。
この働きのおかげで、人間は複雑な環境でも活動することができます。
しかし、裏を返せば、「注意を向けていない情報」は処理されにくくなるという特徴があります。
例えば、食事介助に集中しているときに、少し離れた場所で利用者が立ち上がろうとしていても、その変化に気付くのが遅れることがあります。
これは能力不足ではありません。
人間の注意には限界があるために生じる、認知の特性なのです。
日常生活にも存在するヒューマンエラー
ここで、介護現場ではなく日常生活の例を考えてみましょう。
買い物へ行く途中、「牛乳を買おう」と考えて家を出たにもかかわらず、店に着く頃には牛乳のことを忘れ、別の品物だけを買って帰宅した経験はないでしょうか。
あるいは、自宅へ帰る途中、「今日は駅前の本屋へ寄ろう」と思っていたにもかかわらず、気が付くといつもの帰宅ルートを歩いていたという経験をした人もいるでしょう。
これらもヒューマンエラーの一例です。
人間の脳は、繰り返し行っている行動を効率化するため、「いつもの行動」を優先して実行する傾向があります。
この性質は日常生活では便利ですが、介護現場では「今日はAさんではなくBさんへの介助だった」「今日は食事形態が変更されていた」といった場面で思い込みを生むことがあります。
このように、ヒューマンエラーは特殊な現象ではありません。
私たち一人ひとりが、毎日の生活の中で経験している「人間らしい認知の特徴」なのです。
「間違える存在」から出発する
ここまでは、ヒューマンエラーとは「人間の意図した行動が期待した結果につながらなかった状態」であり、人間の認知の仕組みから自然に生じる現象であることを説明しました。
ここで重要なのは、「人間は間違える存在である」という事実を悲観的に捉える必要はないということです。
人間は間違えるからこそ、互いに確認し合い、環境を工夫し、組織として安全を支える仕組みをつくってきました。
つまり、安全とは、「間違えない人」を育てることではなく、「間違えても重大な事故につながらない仕組み」を構築することなのです。
この考え方を理解するために、認知科学と安全学の代表的な理論を順番に学んでいきましょう。
エラーには種類がある ―― スリップ・ラプス・ミステイク
ヒューマンエラーと一口に言っても、その原因は一つではありません。
心理学者のジェームズ・リーズンは、ヒューマンエラーを分析する中で、エラーにはいくつかの種類があることを示しました。
スリップ(Slip)とは何か
スリップ(Slip)とは、「何をすべきかは正しく理解していたにもかかわらず、実際の行動を誤ってしまうエラー」と定義されます。
つまり、頭の中では正しい手順を理解していても、動作の段階で間違いが起きる現象です。
例えば、利用者の車椅子へ移乗介助を行う際、本来はブレーキをかけてから介助を始めることを理解していたにもかかわらず、他の利用者から声を掛けられ、そのまま介助を開始してしまった場合がこれに当たります。
このとき、知識が不足していたわけではありません。
注意が一時的に別の対象へ向いたことで、行動だけが抜け落ちたのです。
私たちの日常生活でも、「玄関の鍵を閉めたつもりだったが閉め忘れていた」「眼鏡を探していたら、すでに眼鏡をかけていた」といった経験があります。
これらもスリップの一例です。
ラプス(Lapse)とは何か
ラプス(Lapse)とは、「記憶の失念によって起こるエラー」と定義されます。
スリップが行動の誤りであるのに対し、ラプスは「覚えておくべきことを忘れてしまう」現象です。
例えば、「食後に利用者へ水分を提供しよう」と考えていたにもかかわらず、別の業務へ対応しているうちに、その予定自体を忘れてしまうことがあります。
これは知識不足ではありません。
人間の記憶には限界があり、多くの情報を同時に保持することが難しいために起こる自然な現象です。
ミステイク(Mistake)とは何か
ミステイク(Mistake)とは、「判断や計画そのものが誤っていたために生じるエラー」と定義されます。
例えば、「この利用者は一人でも歩けるだろう」と判断した結果、転倒事故が起きた場合、その判断の根拠自体が適切ではなかった可能性があります。
ミステイクでは、本人は「正しい判断をしている」と考えています。
そのため、後から振り返ることで初めて判断の誤りに気付くことが少なくありません。
このように、エラーの種類によって対策は大きく異なります。
スリップにはチェックリストやダブルチェックが有効ですが、ミステイクには知識の向上やチームでの検討が必要になります。
ワーキングメモリとは何か
ラプスを理解するためには、「ワーキングメモリ」という概念が重要です。
ワーキングメモリ(Working Memory)とは、「一時的に情報を保持しながら、その情報を用いて考えたり判断したりする心の働き」と定義されます。
認知心理学者アラン・バドリーは、人間の記憶には「短時間だけ情報を保持し、それを処理する仕組み」があることを示しました。
例えば、電話番号を聞いてメモを書くまで覚えている、食事介助をしながら次に配薬する利用者を頭の中で確認する、といった場面ではワーキングメモリが働いています。
しかし、この容量は決して大きくありません。
一度に多くの情報を処理しようとすると、新しい情報が入るたびに古い情報が失われやすくなります。
介護現場では、複数の利用者への対応、ナースコール、職員同士の連絡、家族対応など、多くの情報が同時に入ってきます。
このような環境では、「覚えていたはずなのに忘れてしまった」というラプスが起こりやすくなります。
したがって、「忘れないように努力する」だけでは十分ではありません。
メモを活用する、声に出して確認する、業務を中断したときは再確認するなど、ワーキングメモリの限界を前提とした仕組みを作ることが重要になります。
デュアルプロセス理論とは何か
認知科学では、人間の思考には二つの異なる仕組みがあると考えられています。
これを**デュアルプロセス理論(Dual Process Theory)**と呼びます。
この理論では、人間の思考を「システム1」と「システム2」という二つの処理過程に分けて説明します。
システム1とは何か
システム1とは、「速く、自動的で、直感的に働く思考の仕組み」と定義されます。
例えば、利用者の表情を見て「今日は少し元気がない」と瞬時に感じたり、長年担当している利用者の歩き方から体調の変化を察知したりする能力は、システム1による働きです。
経験豊富な介護職ほど、この直感的な判断は優れています。
しかし、システム1には思い込みや先入観の影響を受けやすいという特徴もあります。
「いつも大丈夫だから今日も大丈夫だろう」という判断は、その一例です。
システム2とは何か
システム2とは、「時間をかけて論理的に考え、意識的に判断する思考の仕組み」と定義されます。
例えば、服薬内容を確認しながら利用者名を照合する、転倒リスクをアセスメントする、多職種でケア方針を検討するといった場面ではシステム2が働いています。
システム2は正確ですが、多くの集中力と時間を必要とします。
そのため、人間は普段、できるだけシステム1を利用して生活しています。
介護事故の多くは、この二つの思考の使い分けがうまくいかなかった場面で起こります。
スイスチーズモデルとは何か
安全学を学ぶうえで最も有名な理論の一つが**スイスチーズモデル(Swiss Cheese Model)**です。
この理論もジェームズ・リーズンによって提唱されました。
スイスチーズモデルの基本的な考え方
スイスチーズモデルとは、「事故は一つのミスによって起こるのではなく、複数の防御策の弱点が偶然重なったときに発生する」という事故モデルです。
一枚一枚のチーズは、防御策を表しています。
例えば、介護施設では、アセスメント、ケアプラン、申し送り、ダブルチェック、見守り、環境整備などが防御策になります。
しかし、それぞれの防御策には「穴」があります。
アセスメントにも見落としがあり、申し送りにも伝達漏れがあり、人間の確認にも限界があります。
通常は、これらの穴が重なることはありません。
しかし、偶然すべての穴が一直線に並んだとき、事故が発生します。
この理論が私たちに教えてくれるのは、「事故は一人の職員のミスだけでは説明できない」ということです。
事故を防ぐためには、人を責めるよりも、防御策を多層的に設計することが重要なのです。
状況認識とは何か
最後に紹介したい理論が、**状況認識(Situation Awareness)**です。
状況認識とは、「現在の状況を正しく把握し、その意味を理解し、今後どのような変化が起こるかを予測する能力」と定義されます。
例えば、利用者が何度も椅子から腰を浮かせている様子を見て、「トイレへ行きたいのかもしれない」「このままでは立ち上がる可能性がある」と予測し、先回りして声を掛けることができれば、転倒を未然に防ぐことにつながります。
状況認識は単なる観察ではありません。
「見て、理解して、予測する」という三段階の認知活動なのです。
介護職の経験が深まるほど、この能力は向上していきます。
人間を責める安全から、人間を支える安全へ
ここまで見てきたように、ヒューマンエラーは人間の欠陥ではありません。
人間の認知には限界があり、その限界があるからこそ、私たちは環境を整え、仲間と協力し、組織として安全を支えています。
介護安全学が目指すのは、「間違えない介護職」を育てることではありません。
「人間は間違える」という前提に立ちながら、それでも利用者の安全と尊厳を守ることができる仕組みを構築することです。
そのためには、個人の努力だけではなく、チェックリスト、情報共有、多職種連携、教育、心理的安全性、安全文化といった多層的な防御策を育て続けなければなりません。
認知科学は、人間の弱さを示す学問ではありません。むしろ、人間の認知の特徴を正しく理解し、その特徴に合わせて安全な環境を設計するための学問です。
介護安全学もまた、この認知科学の知見を土台とすることで、「人を責める安全」から「人を支える安全」へと発展していきます。
